http://www.servicemall.jp/sokudoku/BN/l/0041001.html
についての感想の6回目です。
(あらすじ)
東京帝国大学に入学が決まった三四郎は郷里の九州から汽車に乗って東京に向かう。途中、京都から乗ってきた女性や田舎者のお爺さんと相席になる。
やがてお爺さんは下車し、女性と二人きりになるが話がかみ合わず、ぎくしゃくした時間を過ごす。
女性は座席を立ち、三四郎の横を通り越して車室の外に出て行く。
やがて女性は戻って来ます。
下を向いて一生懸命に箸(はし)を突っ込んで二口三口ほおばったが、女は、どうもまだ元の席へ帰らないらしい。もしやと思って、ひょいと目を上げて見るとやっぱり正面に立っていた。
どうも間が悪いですね。
好意を持っている人にそんな扱いをしては駄目だろうっていうところ。
三四郎の野暮ったい性格が現れている描写です。
しかし私はこんな風に三四郎をけなしているのですが、実は自分のことを書かれているようで辛いのです。
自分もこんなことがあったような気がします。
相手を意識しているのに行動に表せず、自分のやっていることに熱中しているふりをしていることしかできないという。
そして女は動き出し、窓から首を出して外を見ます。
風が強くあたって、鬢(びん)がふわふわするところが三四郎の目にはいった。
『三四郎の乗った汽車』
で、このような記述がありました。
「これが初めての上京の旅だというのに、三四郎は過ぎゆく車窓の風景をぼんやり眺めるようなことはしない。三四郎は、漱石によって風景を見ることを禁じられているのだ。」
ところがこの女は窓から首を出して外を見ているのです。
風に当たった鬢をふわふわさせながら。
走る車中から首を出して外を見るのは危険を伴なう行為でもあります。私が幼稚園や小学生の頃は、遠足でバスに乗る前は、窓から首を出さないようにと何度も注意されました。そのため今では窓から首を出そうなんて思いもよらない行為です。
だから女が窓から首を出したという描写を見て、非常に大胆というか自由自在な行為に少しばかり驚きました。
私が窓から首を出すことを忘れていたのは、最近の電車やバスの窓の構造によるのかもしれません。
私がかつて子ども時代に過ごした町に走っていた、今は廃線になってしまったローカル線の電車の窓は、1枚の窓を下に落として開くという単純な構造のものでした。
「開く」か「閉まる」かの状態しかなく、中間の状態がない単純な構造で(上位機種では中間の状態で止まるというのもあった)、しかし空けたならばその上から首を出すことができました。
しかし最近の電車やバスは窓の開くスペースは狭く、首を出すことができない構造になっているのではないでしょうか。
それは安全対策でもあり、電車などは高速化のためにそもそも窓が開かない構造のものも多くなっています。
そう考えると、何だか檻の中に閉じ込められている現代人という感じがしますね。安全や利便性の一方で自由さを奪われているというか。
もはや人類の文明は、窓から顔を出して気楽に景色を楽しめる牧歌的な段階ではなく、
窓から顔を出して外を見れば危険な段階にまで来ている ということなのでしょうか。
(なお、走る車や電車の窓から首を出すのは非常に危険な行為です。
絶対にやらないで下さい。)
(^_^;)
私はかくの如く読みました。
皆様はどう思われますか。
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